推古帝2年(594年)法道仙人開基と伝えられる五峰山光明寺は、現在ではわずかに四つの院坊が残るのみであるが、文明年間(1469年〜1487年)頃には二十五の院坊があった。
観応2年・正平6年(1351年)足利尊氏と弟の足利直義が対立した観応の擾乱で、足利直義によって派遣された石塔頼房が光明寺に陣を置き、書写坂本へ追われていた足利尊氏が光明寺を包囲した。尊氏は引尾山、高師直は鳴尾山、赤松則祐は八幡山に陣を布いて光明寺の石塔軍と戦ったが勝敗付かず、足利尊氏は光明寺の包囲を解いて湊川へと軍勢を移した。
文明16年(1484年)赤松政則は足利義政の取りなしで浦上則宗ら家臣団と和解し、翌文明17年(1485年)播磨へ侵攻した山名氏と戦うため光明寺に陣を置いている。
標高230m程の所に本堂がある光明寺は山腹の駐車場から歩いて登ることができる。 「太平記のふるさと」と題して光明寺合戦要図を載せた案内板や、石塔頼房が本陣を置いたとされる本堂裏には光明寺合戦本陣跡の石碑とともに、だいぶ古びているが足利氏の家紋である二つ引両を記した陣楯が置かれ雰囲気を出している。
滝野駅の北側にある県道を西へ進み光明寺交差点から山上に登っていくと光明寺の駐車場へ行くことができる。本陣跡は光明寺本堂の裏にある。
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