文明4年(1472年)内藤左京進盛次によって築かれたと云われる。 内藤盛次は馬渡谷城主であったが、「馬渡谷」の地名を嫌い満久城を築いて移ったと云われている。
内藤氏はその後在田氏に従っていたと云われ、在田氏と芥田城主の世良田氏が戦った「芥田表合戦」で、満久内藤藤次は在田元長より感状を得ている。 しかし、天正3年(1575年)三木城主別所長治が野間城の在田氏を攻めたときには、藤次は別所氏に味方したようで、別所長治より感状を得ている。
天正16年(1588年)戸田勝隆より伊予国宇和郡内にて知行が宛がわれており、内藤氏は戸田氏に仕え伊予国大洲へ移ったと考えられている。
満久城はオーラセントゴルフ倶楽部の中にある標高190m程の蛤山に築かれている。 「ひょうごの城」によると、ゴルフ場内に取り残されるように城の遺構は残っているようであるが、残念ながら現在は見学することができないようである。
同所に掲載されている縄張図を見ると、南に食い違い虎口を持つ主郭は、西から南側に横堀がl字に付き、更に南下にも横堀が付く堅固な構えになっている。