築城年代は定かではないが正平17年(貞治元年・1362年)在田則康によって築かれたのが始まりとされる。
在田氏は赤松氏の庶流で赤松範資の子朝範を祖とする。在田氏は本貫地の在田荘に居たが、野間城を本城としたのは在田村長の頃とされる。
享禄年間(1528年~1532年)在田村長のとき、浦上村宗によって攻められ落城した。しかし、村宗は享禄4年(1531年)に大坂の天王寺で討死したため、在田氏が野間城を回復した。
天正3年(1575年)には但馬八木城主別所重棟によって攻められ落城した。その後、この辺りは別所氏の所領となり、家臣中野間伊賀守正広が中野間城に在城していた。この中野間城が野間城あるいは光竜寺山城であろうか。
野間城は極楽寺の西背後に聳える比高200mほどの山に築かれており、登山道が整備されている。
野間城は大手道となる谷間を登り詰めた鞍部の北側から東へ伸びた尾根にある主郭部と、南尾根に築かれた出丸部で構成されている。
主郭部は細長く続く尾根に露出した岩を取り込みながら狭い曲輪群が連なっており、南側面にある武者走りが東端の曲輪まで続いている。
手狭な尾根上に築かれているため曲輪は狭く、南側面には一部石積みを伴っている。堀切は東端と西端南側、西尾根の3か所に認められ、西尾根のみ二重堀切である。いずれも岩盤を削った大堀切となっている。
南の出丸部は鞍部の上に曲輪があるが、中心となるのはやや離れた南の峰で、そこから下と東の側面に腰曲輪群が設けられている。
整備された登山道は北東尾根下の橋のたもとにあり、入口に案内板が設置されている。車は橋の反対側に駐車可能である。
大手道は鞍部から谷筋に降りる道で、一部はガレ場で不明瞭ではあるが歩くことはできる。入口はわかりにくいので、下山で利用するのもありだろう。
最寄り駅(直線距離)