築城年代は定かではないが赤松氏によって築かれたと云われる。
嘉吉元年(1441年)嘉吉の乱では赤松満祐の弟竜門寺直操が城主となった。 竜門寺直操は但馬口へ進み、生野峠手前の田原に陣取り山名宗全の軍勢を迎え撃ったが敗北を喫し、その後も敗戦して責任をとって自害した。
天文年間(1532年〜1555年)には赤松刑部少輔祐尚が城主であったが、天文11年(1542年)尼子氏との戦いで討死した。
小谷城は標高218mの城山山頂に築かれており、現在は登山道が整備され、遺構も非常に見学し易い環境が整えられている。
主郭部は東の最高所が主郭となり、そこから南西に向かって段々に造成され、北側の土塁がスロープとなる。主郭の東端は弓形状になった堀切6で両端は竪堀として落ちる。主郭の南側面に武者走りがあり、その下方は横堀9となる。武者走りはそのまま西端の曲輪に至る虎口2につながる。
西の二郭は土塁囲みで内部は小さく段分けされている。注目すべきは南西隅にある虎口で外枡形になっている。二郭も主郭同様南側に横堀10があり、その堀がそのまま堀切4や竪堀11などと繋がっている。いっぽう北側面には主郭には見られない畝状竪堀群3がある。先行図面では四条あるが、西側三条は明瞭だが東端は微妙である。
登山口の陽松禅寺の背後には、城主赤松祐尚の墓とその家臣の墓と伝えられる五輪塔や宝篋印塔などが無数に存在する。
南の山腹にある陽松禅寺から登山道が付いている。駐車場はお寺の駐車場も利用可能だが、ここまでの道も狭いので、少し下にある公民館の広い駐車場に駐めて登るのが良いだろう。
北西の尾根先や東の尾根先にある車道からのアクセスも可能だが、大した比高でもなく、あまりメリットはないかも。
最寄り駅(直線距離)