築城年代は定かではないが麻生氏の属城として築かれ、家臣の富永四郎左衛門尉の居城であった。
天正6年(1578年)山鹿城主麻生元重と岳山城主宗像大宮司氏貞が度々戦ったが決着がつかず、遠賀川を境として東が麻生領、西が宗像領となり、猫城は宗像氏の属城となって家臣吉田倫行が雑兵150人を率いて配された。
天正8年(1580年)5月大友氏は鷹取山城主毛利兵部少輔鎮実に猫城を攻めさせ、宗像大宮司氏貞が猫城におびき寄せられた所を立花山城主立花道雪が岳山城を攻略する手筈を整えた。宗像大宮司氏貞は吉田少輔六郎貞永、占部下総守貞康らに二千余りの兵を与えて猫城の援軍を派遣し激戦の末に毛利鎮実を撃退した。
猫城は月瀬八幡宮のある比高20m程の微高地に築かれている。 比高20m程の小山ではあるが急峻な地形で周囲には沼地が広がっていたという。
山頂には月瀬八幡宮が鎮座しており、二段の平地が残る。付近にある水路は堀の名残だという。