築城年代は定かではない。正治2年(1200年)には宗知宗が赤間山城に住んだとされる。
建武3年・延元元年(1336年)宗像氏俊は九州落ちした足利尊氏を宗像館に招き、赤間山城を修築して蔦山城とした。
天文20年(1551年)大内義長の支援を受けて白山城を拠点とした宗像氏貞は、永禄2年(1559年)宗像鎮氏の侵攻を受けて大島へ逃れた。永禄3年(1560年)毛利元就の支援を受けた氏貞は鎮氏の拠点である許斐岳城を攻略して旧領を回復し、蔦山城を大改修して現在の規模にし岳山城とした。永禄12年(1569年)大友氏と争っていた毛利氏が周防に侵入した大内輝弘の為に筑前から撤退すると、氏貞は飯盛山の陣を引き払い岳山城に籠もった。毛利勢を追撃した大友の軍勢は岳山城の麓を取り囲み岳山城を攻めたが落とすことができず、大友氏は城の明け渡しなどを条件として和議を結ぼうとしたが氏貞はこれをのまず、若宮・西郷の地を割譲することで和議が整った。
岳山城は宗像市と遠賀郡岡垣町との境にある標高369.3mの城山山頂に築かれている。 城の遺構はは城山山頂を中心として、北西に伸びる尾根、東へ伸びる尾根に拡がり、総延長は1km程におよぶ。
城は城山山頂から東西の尾根を中心とした曲輪群と、北東の曲輪群に分けることができる。曲輪には土塁は付いておらず切岸による防衛で、尾根伝いに階段状に連なっている。
この城には畝状竪堀群が多く用いられているが、大半は東側の斜面にあり、北東の曲輪群は北の石峠からの防衛のために北側の斜面にも設けられている。通常尾根状竪堀群はやや緩やかな斜面に設けられることが多いが、この城では急峻な斜面にまで竪堀が施されている。
堀切は深く明瞭なものが多く、二重・三重と連続堀切も多く用いられている。特に東尾根の先端部分にある堀切は、城内側は弓なり状の二重堀切で変化して伸びる竪堀も大きく、その少し外側にも二重堀切を設けて四重の連続堀切としている。
登山道はいくつかあるようですが、西麓の宗像市三郎丸にある登山道から登りました。県道75号線付近に城山への登山道の道標があり、それに従って進むと尾降神社の前を通って登山道手前の駐車場に至ります。
ハイキングコースにもなっているようで多くの人が登っていました。
最寄り駅(直線距離)