詳細不明。天正14年(1586年)豊臣秀吉の九州征伐のとき、秋月方に属していた麻生鎮里、統春父子の持城であったが、秀吉方の黒田孝高によって攻め落とされた。
浅川城は遍照寺の東背後にある南北に伸びた丘陵に築かれている。
主郭は南端の標高70mの部分で西と南東下に堀切が一条あるが、堀切の位置が主郭にかなり近い部分にあるのが特徴である。主郭から北へ続く尾根には一部西に土塁の付いた曲輪があり、北端は北に二条の堀切、西に一条の堀切がある。また東尾根にも堀切があったが、こちらは宅地造成によって消滅しており、その脇にある竪堀は残っている。
この南北200m程の規模が城域であるが、これより広く、南端から北端まで城域としている図面もある。確認するために歩いてみたが、主郭より南は自然地形、北は石塔がある辺りには段構造が確認できるものの、北尾根の部分は自然地形であり、城域は『福岡県の中近世城館跡』に掲載されている図面の範囲であろう。
東に造成中の団地からよじ登るとすぐに城域となるが、西の遍照寺から登る道があるようだ。
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