築城年代は定かではない。古くは大蔵氏(原田氏)が安徳天皇が岩門に滞在した時の警護の城として築いたのが始まりとも伝えられる。
弘安8年(1285年)の霜月騒動が起こると少弐景資は安達盛宗とともに岩門城に挙兵するが、北条得宗家方の兄少弐経資によって攻められ岩門城で敗死した。
南北朝時代には九州探題今川了俊が在城して家臣のか熊谷四郎左衛門が警護した。
室町時代には山口の大内義興の家臣遠田承兼や吉岡盛実が城督となり、永正10年(1513)年頃には大内氏の家臣麻生家明が城督を務めていた。
岩門城は標高195.2mの城山山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
主郭は山頂の北端部で、北下に土塁が巡る曲輪が付いている。この主郭部は公園として整備されている。
主郭から南尾根側にも城郭遺構が拡がる。主郭の南下大きな鞍部で大堀切となり、その先に二の曲輪、三の曲輪と記された曲輪群がある。この二の曲輪は土塁の付いた最高所で、西に段曲輪が伸び、先端には堀切が残る。南は三の曲輪があり、その下は鞍部になって尾根に浅い二重堀切が残る。
南尾根にはさらに城郭遺構が拡がるが、曲輪の削平は甘く切岸も明瞭ではなくなる。ただ北東尾根や東尾根などに浅い堀切が残っており、この辺りは古い時代の城郭遺構とも考えられる。
現在東側に林道が通っており、こちら側に駐車場と登山道の入口がある。
西麓には少弐景資の墓がある。
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