寛正3年(1462年)周防の大内氏の家臣飯田幸松丸によって築かれたと云われる。 大内氏の支配下で郡代が置かれ城主となった。
大内氏が滅亡して大友氏の支配が及ぶと、小田部鎮元(鎮通)が城主となった。天正7年(1579年)佐嘉の龍造寺隆信の軍勢が三瀬を越えて早良郡へ侵攻すると、鎮元は安楽平城へ籠城した。鷲ヶ岳城主大鶴宗雲は援軍を差し向け、立花山城の戸次道雪も援軍を送ったが落城した。城主の小田部鎮元は自刃あるいは討死したという。
安楽平城は油山から派生した峰の一つ標高394.9mの荒平山山頂に築かれている。 現在はハイキングコースとして登山道が整備されている。
安楽平城は現地の表記に従うと山頂の本丸、北西尾根の二の丸、北東尾根の三の丸から成っている。このうち、本丸と三の丸は一つの曲輪群とみることができる。
本丸は山頂にあり、ここに案内板と石碑が建っている。ここから油山方面へ続く登山道へ降りていくと三の丸であるが、本丸と合わせて大きく四段の曲輪群で、尾根の東端を堀切で遮断している。東端付近に石積、南側面にも規模の大きな石積が残されている。
本丸から西下の早良台・重留方向に降りていくと二の丸がある。二の丸との間には堀切があり、その先に南西側に石塁を設けた鞍部の曲輪がある。二の丸は南北に伸びた尾根に曲輪を配しており、概ね西側に土塁が付いている。北東の尾根下にはさらに腰曲輪、北西尾根先には連続堀切が残されている。
この他、西尾根や南尾根にある鉄塔が建っている辺りも尾根に堀切が残っており、出丸となっている。
南の「城ノ原」から続く林道沿いには「荒平城主小田部鎮元自刃之地」の石碑とともに供養塔が建っている。
登山道は各方面から付いているようだが、一番楽に登れそうなのが南の「城ノ原」から付いている舗装林道の終点からで、標高200m付近の林道終点に駐車場があり、そこから登ると本丸に至る。(地図)
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