建治2年(1276年)鎌倉幕府が九州の御家人に命じて築かれた。 文永11年(1274年)元によって侵攻された鎌倉幕府が、元の再侵攻に備え海岸線に石の防塁を築かせた。現在元寇防塁と呼ばれる防塁は当時は『石築地(いしついじ)』と呼ばれていた。 弘安4年(1281年)に再侵攻してきた元軍は防塁の築かれた博多湾からは上陸することができなかった。
九州の御家人は各国ごとに割り当てられた区画があり、所領に応じて防塁を築く長さが決められていた。
西新の元寇防塁の分担はわかっていないようである。
西新の元寇防塁は西南学院大学の西にあり、元冠神社とともに露出した石積が展示されている。
西新の防塁は基礎を粘土で固め、海陸両側を石塁にし、その間に粘土と砂を敷き詰めている。
南方にある祖原公園の地は文永の役で蒙古軍が上陸して布陣した地で、「麁原元冠古戦場跡」として石碑が建っている。