建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は怡土城の一部を利用して築かれている。
原田氏の祖は古処山城秋月氏と同じく藤原純友の乱で名を馳せた大蔵春実であり、大蔵氏は漢の高祖の子孫で阿知使主の末裔と伝わる。
原田氏ははじめ大内氏、陶晴賢謀反後は毛利氏、ついで島津氏と結び反大友勢力としてこの地に根付いていた。しかし、豊臣秀吉の九州征伐によって落城し廃城となった。 原田氏はその後、加藤清正や寺沢広高らに仕えたが最終的には保科正之に仕えた。
高祖城は高祖山山頂に築かれている。現在は登山道が整備されている。
高祖城は上之城と下之城と呼ばれる二つの曲輪群があり、さらに南東尾根にも曲輪群がある。上之城、下之城ともに曲輪側面に石積があり、曲輪には瓦片が点在している。 北斜面には畝状竪堀群があり、上之城の北斜面部には石積された曲輪があり、土塁によって虎口となる。その下にも連続竪堀が残っている。
南東尾根の曲輪群は明瞭ではないが、南側に土塁が付いており、ここにも部分的に石積が残る。上之城の背後に大堀切があり、その先に小さな連続堀切があるが、尾根先には堀切を設けていない。
高祖神社に駐車場があり、そこから登るのが近いが急坂である。怡土城とともに訪れるのであれば、高来寺地区にある怡土城の登山道から登るのが楽である。
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