建仁3年(1203年)秋月種雄によって築かれたと云われる。 秋月氏の祖は藤原純友の乱で名を馳せた大蔵春実であり、大蔵氏は漢の高祖の子孫で阿知使主の末裔と伝わる。
秋月氏は少弐氏や大内氏、大友氏などその時代において勢力をもった大名に属していたが、大内氏が滅亡し毛利元就が勢力を伸ばすと大友氏を離反して毛利に与した。弘治3年(1557年)大友氏に攻められると秋月文種は古処山城に籠城したが落城し、文種と嫡男晴種は自刃し秋月氏はほぼ滅亡した。しかし、文種の二男種実は古処山城から脱して毛利氏の元へ逃れており、永禄2年(1559年)毛利氏の支援を受けて旧領の奪還に成功した。
天正年間(1573年〜1592年)になると秋月実種は大友氏や龍造寺氏の衰退などで所領を拡げ最盛期を迎える。薩摩の島津氏が勢力を北へ伸ばしてくると、これと結んでさらに勢力を拡げた。
天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐では、島津氏に属して古処山城に籠城し、周辺の諸城を固めた。しかし、岩石城を一日で落とされ、益富城においては一夜城を築かれ驚いた種実・種長父子は名茶器「楢柴肩衝」と娘を差し出し降伏した。秀吉による九州征伐が完了すると、秋月氏は日向国高鍋に移封となった。
古処山城は標高859.4mの古処山一帯に築かれており、秋月の町並みから比高750m程もある高所に位置する。
古処山の山頂は岩山であり、この辺りの削平地はわずかである。城郭遺構はこの山頂から西へ伸びた尾根と南へ伸びた尾根の二ヶ所に点在している。
西尾根の遺構は観音像のある曲輪から西へ続く尾根にあり、西尾根に二ヶ所の堀切がある。曲輪は尾根の北側に帯曲輪状の平段が三段程あり一部列石がある。この北側面には畝状竪堀群がある。
南尾根は経ヶ峰と呼ばれる最高所に石仏があるがこの辺りはほぼ自然地形で、一段下がった北西側に城内で最も広い曲輪がある。この南尾根の周囲を取り巻くように畝状竪堀群が巡っている。
秋月の城下町から登山道があるが、車の場合は標高500m程の林道の終点から登る事ができる。この林道は国道322号線から分岐しており、終点に広い駐車場がある。(地図)
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