築城年代は定かではない。秋月氏の支城であった。
弘治3年(1567年)大友氏に攻められ秋月文種は自刃、嫡子種実は安芸の毛利氏を頼って落ち延びた。
永禄年間(1558年~1570年)には毛利氏の支援を受けた秋月種実が古処山城城を奪還して勢力の回復を図る。
これに対して永禄10年(1567年)大友勢は古処山城主秋月種実を攻め、古処山城にこもった秋月氏を攻めるため、先陣として道場山に吉弘鑑理、福嶽城に臼杵鑑速、そして後陣として休松城に戸次鑑連が布陣した。この戦いで秋月方は吉弘鑑理や臼杵鑑速の陣に夜襲をかけ、休松城に敗走する兵を追って休松城にも攻め込み大友勢を撃退した。
この休松の戦いで勝利した秋月氏ではあったが、大友氏の勢力は大きく、永禄12年(1569年)頃には再び大友氏に降っている。
休松城は標高300mの安見ヶ城山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
休松城は山頂から北と東に伸びた尾根に曲輪を展開おり、北東の尾根は自然地形のままである。
主郭部は南端Iがやや高く、北に土塁を挟んで曲輪IIがある。この曲輪を仕切る土塁はやや分厚く中央が少し開口するが登山道が通っていることもあって本来の開口部なのかはっきりしない。北尾根側には一段腰曲輪があり、その先に堀切1と竪堀を配して遮断している。一方先端から西へ続く尾根は竪堀2があるものの堀切はない。
山頂から東へ伸びた尾根に曲輪IIIがある。西端が一番高く緩やかに下って東端は土塁を伴っている。東端部の開口は破壊と思われるが、南側に桝形虎口がある。虎口の外側には畝状竪堀群5があり、外側の導線は不明である。
主郭から大平山へ続く南西尾根にはやや降った所に堀切と竪堀3が確認できる。
大平山とともに登山道が整備されているが、北側の谷を林道が通っており、その終点にある駐車場から登ると簡単に主郭に行くことができる。
林道入口は北西の国道322号線沿いにある。
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