築城年代は定かではないが秋月種実によって築かれたと云われる。 古処山城主秋月種実が豊後の大友氏に備えて日田街道を押さえる要衝に築いた城で、喜津瀬因幡、喜津瀬主水が城番であった。
筑前に小早川隆景が入封した際には仁保右衛門大夫隆康、小早川秀秋の時代には伊藤雅楽介が城主であった。
関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は、黒田二十四騎の一人栗山備後守利安に一万五千石を与えて城主とし、黒田六端城の一つになったが、元和の一国一城令によって廃城となった。六端城のうち他の城が豊前境に位置する中で唯一豊後との国境付近に設けられた城である。
麻底良城は筑後川の北岸にある標高294.9mの麻底良山山頂に築かれており、主郭には麻底良神社が鎮座している。
主郭を中心に北東、南西に伸びる尾根に曲輪を展開する。至る所に石垣が残存しており総石垣の城であったと推測される。また、瓦片は南西尾根側に多く残り、北東側はあまり見かけない。
南西に伸びる尾根の曲輪は北東側に比べると小規模で削平も甘く傾斜しているところも多々ある。曲輪VとVIの間がやや低くなり、南から通路が接続しており、虎口と考えられる。
曲輪VIIは北東部に細長い基壇がある。西側部分は石垣が残り、北側は多段の石垣が残る。
南の尾根を降ると曲輪VIIIがあり南端には堀切4がある。曲輪VIIIの西側面にも石垣が確認できる。
主郭の北東下は箱堀状の曲輪IVを挟んでIII、IIと続く。削平状態もよく曲輪も広いが瓦片は見かけない。曲輪IIの南東隅に張り出しがあり櫓台のようであるが、なぜこの位置なのだろうか。
曲輪IIとIIIの境目に竪堀2があり、曲輪X?に降りていく通路があり、ここが虎口となる。このあたりの石垣も隅が残っている。北東端は堀切1で曲輪IIは堀切に面して幅弘の土塁があり、外側には隅石をともなう石垣が残存する。
北東尾根側の石垣は南西側に比べて残存具合がよく、埋もれている部分も多く残っていると思われる。
杷木志波の円清院を過ぎて普門密院を目指す。さらにその先に進んで行くと麓にある麻底良神社にたどり着く。ここに登山者用の駐車場がある。以前は入口に登山口の看板がたっていたがなくなっている。参道も崩れている部分が多くなったのであまり整備されていないよゔてある。
なお円清寺は栗山利安によって建立された寺院で、黒田如水・長政・栗山利安の位牌の他、利安の子栗山大膳追悼碑が建っている。
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