築城年代は定かではないが戦国時代に秋月種実によって築かれたと云われる。 種実が大友氏への備えとして築いたもので、秋月氏二十四城の一つである。
天正8年(1580年)城主木村甲斐守が端午の賀礼の為、古処山城へ出仕している隙を付いて大友勢が侵攻してきたが、甲斐守の夫人が城兵を下知して防戦し撃退したといわれる。
長尾城は筑後川の北岸にある標高129m程の山に築かれている。古代山城である杷木神籠石の一角に位置しており、東側面の畝状竪堀群の一角には杷木神籠石の列石が露出している。
逆L字に折れ曲がった曲輪は低い段差で五段に分かれており、北端が主郭となる。主郭には北から東にかけて土塁が残っているが、開墾されていたようで浅い溝が残る。
曲輪の側面は一部崩落を除いて畝状竪堀群が囲繞するが、北尾根は三重堀切1、南端東尾根は堀切5になっている。曲輪の西側面は一段低く帯曲輪があり、曲輪IIIからIVのあたりは低い段差で段々になるが、曲輪IIIやIは帯曲輪に対して折れをつけている。
虎口は明確ではないが、現状登城路として西尾根Aから入るルートと、Bから登ってくる山道がある。
Aは尾根の一部に二条の竪堀を設けて狭めているが、通路部分は空いており、主郭西下の腰曲輪、帯曲輪に通じている。農道として利用されていた可能性は高いが、もともと虎口の可能性は十分考えられる。
Bは畝状竪堀群の一部を分断して登ってきており、後世のルートの可能性が高い。しかしながら、曲輪IIIの折れや西の先端部分にいくにしたがって、帯曲輪と畝状竪堀群の起点に段差がなくなっていくなど、城内と城外を結ぶ通路として帯曲輪を設けていたと考えらる。いずれにせよ、大手は北西山腹からと考えられる。
国道386号線の浜崎団地前に杷木神籠石見学者用の駐車場がある。
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