詳細不明。伝承によれば城主は毛利鎮実とされる。鎮実は天文・天正年間(1532年〜1592年)には鷹取山城主となっている。
地元の方の話によれば、城主はやはり毛利鎮実ではじめ大友氏に属していたが、古処山城主秋月氏の勢力が及ぶと人質を要求され、やむなくこれに従ったという。この人質は後に謀略により取り戻したが、秋月氏によって侵略され毛利氏は一時日田へ逃れたのだという。その方の話では秋月氏が馬見神社に寄進した絵馬が二枚あるということであったが、残念ながら暗く特定できなかった。
「日本城郭体系」、「福岡県の城」に載る馬見城は南背後にある馬見山山頂よりやや西にある茅城を指している。地元ではどちらも馬見城の名が使われているようであるが、話を伺った方は馬見城と茅城と呼んでいたのと「福岡の城郭」でもこちらを馬見城として掲載しているのでこちらを馬見城として紹介する。
馬見城は県社馬見神社の西側の丘陵に築かれている。山頂から北西に延びた尾根に五段の削平地が設けられている。
南東端の山頂には山神などの社が祀られた削平地があり、その下に南を除く三方を囲むように削平地がある。ここから10m程降ると南北二段の削平地があり、さらに数m降った所に広い削平地がある。下のほうの曲輪には城の遺構かどうかは不明だが石積があり、一番下の曲輪はよく残っている。
城山の南側は水田となっているのだか、ここには元々堀があったといい、現在は若干堀切のような状態になっている。
国道211号線から県道440号線に入って南下していくと馬見神社があり、その西側の丘陵が城址。南側の民家の脇の細い道を山の西側に向かって進むと神社まで山道がある。