築城年代は定かではないが永享年間(1429年〜1441年)初頭に大内盛見によって築かれたと云われる。
その後は大内氏・大友氏などによって争奪戦が繰り広げられた。天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐では豊臣軍がわずか一日で岩石城を落とすと、益富城に籠もっていた秋月種実は益富城を破却して古処山城に逃れた。秀吉は付近の人々に命じてかがり火を焚き、さらに障子や戸板を集めて城を修復したように見せかけ、いわゆる「一夜城」を築いて古処山城に籠もる秋月父子を驚かせた。これを見た秋月種実は剃髪して家督を種長に譲り「楢柴」の茶器を秀吉に献上して降伏した。秀吉は村人に華文刺縫陣羽織と佩刀を与え永代貢税を免除したという。
関ヶ原合戦後に筑前に入封した黒田長政は六端城の一つとして後藤又兵衛基次に一万六千石を与えて城主としたが、慶長11年(1606年)に基次が逐電すると、鷹取山城より母里太兵衛友信が移った。元和の一国一城令によって廃城となった。
益富城は遠賀川の北岸にある標高189mの益富山山頂に築かれている。
益富山は国道211号線に面して北西から南東に長く伸びた山で、本丸・二の丸・馬屋を設けている。また北東背後の山にも別曲輪・出丸といった曲輪群が広がる広大な城郭である。
本丸は北西にあり、南東に二の丸がある。本丸と二の丸は櫓台で区切られているがほぼ一体の曲輪となっている。周囲には横矢掛けの張り出しや石積土塁などが巡らされている。虎口は本丸の北西と二の丸の南東、さらに東側にある。北西と南東の虎口は石垣の櫓台を設けて防備している。
本丸の北側には畝状竪堀群が良く残り、その先には馬屋跡がある。馬屋跡の北側先端部は石垣が巡らされている。二の丸の東下には水曲輪があり、この辺りには破却時に崩された石垣の残骸が残っている。
北東側の山にある出丸・別曲輪一帯はあまり整備されてはいないが、畝状竪堀群、土塁の付く曲輪などが残っている。
益富城は史跡指定とはなっていないようですが、破却された状態も含めて遺構の状態も良く本丸付近は良く整備されて見やすくなっている。たまたまボランティアで整備している方と出会い色々話を聞かせていただいたのだが、役所などと連携して少しずつ改善していきたいと語っていた。毎年10月末から11月初旬には「一夜城」イベントが開催されているようで近くの方は是非行ってみてください。
大手門(移築 城門)
搦手門(移築 城門)
国道211号と国道322号線の大隈交差点を国道211号線沿いに嘉麻市役所方面へ。数百メートル進むと「一夜城」の道標があるのでそれに従って登っていくと駐車場がある。舗装された遊歩道を5分ほど登れば二の丸に至る。
善照寺には大手門、麟翁寺には搦手門が移築され、母里多兵衛友信の墓所がある。
最寄り駅(直線距離)