詳細不明。天智2年(663年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は白村江の戦いにおいて大敗した。その後、大陸からの侵攻を恐れ西日本各地に築かれた古代朝鮮式山城の一つと考えられている。
また、この雷山神籠石の辺りには「筒城」と呼ばれる中世城館があり、高祖山城の原田氏の支城で家臣の西重国が守っていたという。原田氏の勢力が衰えると西氏は原田氏に対抗するようになったが、永禄10年(1567年)に原田氏に攻められ宝珠岳城主西左近鎮兼とともに西重国も攻められ、龍造寺氏に援軍を求めたが間に合わず、西氏は討たれ滅亡した。
雷山神籠石は標高954.5mの雷山から北へ派生した山腹にある不動池を中心とした一帯に築かれている。いわゆる神籠石系の古代山城で、池の北に北水門、南に南水門と二つの水門があり、池を取り巻く山腹には土塁と列石が巡らされているようである。
現在整備されているのは北水門(地図)と南水門(地図)付近で、南水門は破損していて残っていない。北水門は三箇所の排水溝があり、現在も水が流れている。この水門から東西両尾根に列石が続いている。列石は南水門の辺りにも確認することができる。
雷山神籠石の外周を一周してみたが、列石が確認できるのは北水門から東西両尾根に登る部分と、南水門から東西両尾根に登る部分で、南北に続く尾根の辺りはまったく列石を見つけることができなかった。
中世城館とされる「筒城」の遺構は見つかっていないようである。北水門の所には筒城神社の跡があり、その西の峰は物見砦の旗振嶺城跡とされるが、ここも遺構は乏しい。
不動池まで林道が通っており車で行くことができる。車道は北西の飯原側と北東の雷山側からそれぞれ付いているが、雷山側から雷神社を経由して行く道の方が広く安全である。
飯原側からの道は大半が舗装はされているが、途中の道は離合が難しい。
最寄り駅(直線距離)