築城年代は定かではないが、享禄年間(1528年〜1532年)に三瀬(野田)土佐守入道宗利によって築かれたと云われる。
もともとは在地領主の三瀬氏の居城であったが、天文元年(1532年)三瀬貞家のとき、神代勝利を招いて山内諸豪族の盟主とし、三瀬城を譲ったと云われる。
神代勝利は山内の盟主として勢力を拡げ、村中城主の龍造寺隆信と戦った。永禄7年(1564年)勝利は隠居して畑瀬城へ移り、家督は嫡男の長良が継いだ。神代長良は翌永禄8年に三瀬城を改修して家臣団を集め、龍造寺氏に備えた。また長良は千布城を拠点として平野部へも進出したが、同年嫡男と娘が疱瘡によって夭折すると、この混乱に乗じて龍造寺隆信に攻められ千布城から追われた。
元亀2年(1571年)神代長良は鍋島直茂の弟小川信俊の子を養子に迎えて家督を譲り、その神代家良は天正18年(1590年)に山内から芦刈・川久保へ領地替えとなり、三瀬城は廃城となった。
三瀬城は佐賀県と福岡県の県境近く、三瀬峠からわずか1.5km程の所にある標高671mの山に築かれている。
主郭部は南北二郭で登石垣状の石塁で繋がっている。主郭は山頂にあり、周囲を高土塁が巡り南と東に虎口を開く。土塁は部分的に石積が施されている。南の虎口1が大手で二郭に通じるが、その東側が大きく南へ張り出しており、強烈な横矢を掛ける。虎口の外側の坂道は西側が登石垣状の石塁となっている。
二郭は主郭から南へ伸びた尾根に築かれており、これも周囲を土塁が巡っている。虎口は南端西側にありこの虎口周りに石積が多く施されている。この虎口も東側が内側に折れて横矢が架かっている。
主郭から北へ伸びる尾根は堀切+畝状竪堀群1で遮断している。主郭側は堀切であるが北端は西端を完全に遮断せず残してある。
主郭東の虎口から出ると微妙に削平された空間と土塁状地形が点在しているが炭窯跡も多く、城にともなう地形か不明なところが多い。そのなかで削平地IIIは南北二段に削平してあり、背後には堀切状地形5がある。ただこれは堀切というよりは雨水が削平地に流れて込まないように両サイドに流すための溝といった印象である。
登山道がある南西側に降りた所に広い平地空間があり、この部分が「館」と称されている。東の谷筋には土塁が残り、谷には沢も流れており居館が置かれていたようである。
佐賀県側から福岡方面に国道263号線を北上し、三瀬トンネルの有料区間から旧道方面に入る。その先に林道の入口があり三瀬城への道標が出ている。
林道とはあるが片側一車線の立派な道路でこの先に三瀬城の案内板が設置された駐車場がある。(地図)