築城年代は定かではない。永正年間(1504年〜1521年)頃に在地土豪の陣内大和守の居城であった。
永正年間(1504年〜1521年)に神代宗元が筑後から肥前に移り、陣内大和守の娘婿となって千布城に住んだという。この宗元の二男として誕生したのが神代勝利で三瀬城を居城とし、その子長良は山内から平野部へと進出し、この千布城もしくは土生島城を拠点とした。
天文14年(1545年)龍造寺胤栄によって攻められ、福島周防守利高と千布次郎家利は城を脱して山内へ逃れた。永禄8年(1565年)長良の嫡男と娘が疱瘡によって夭折すると、この混乱に乗じて龍造寺隆信が千布城に攻め寄せ、長良は畑瀬館へと追われた。
千布城は現在の金立公民館、浄円寺の辺りに築かれていた。公民館の東側の入口に案内板があり、その両脇に復元された土塁がある。土塁は公民館の南側にも現存している。
千布城は副郭の平城であったようで、公民館から南へと曲輪が続いていたようである。現在公民館の南側は畑であるが、その南に「館林」と呼ばれる区画があり、土塁や堀が現存しているようである。ただ、この部分は藪になっていて確認できなかった。