築城年代は定かではない。在地豪族の畑瀬氏の居城と考えられており、天文13年(1544年)に三瀬城主の三瀬氏が神代勝利を山内の盟主に迎えたとき、畑瀬城主として畑瀬兵部少輔盛政子息越前守がおり、「五人衆」の一人に数えられている。
永禄7年(1564年)神代勝利は嫡男長良に家督を譲り、畑瀬城を築いて隠居し、翌永禄8年に没している。
畑瀬城は嘉瀬川東岸の標高439.9mの山頂に築かれている。畑瀬城はこの山頂部の詰城と北西麓に出丸、そして畑瀬館と呼ばれる居館があったが、詰城を除いてすべてダム建設によって水没してしまった。
畑瀬城の詰城は鉄塔がある一帯でもともと鉄塔はやや北の平段にあり、ここが主郭であったようだ。全体的に遺構は乏しく、主郭の南側に浅い堀切が確認できる程度である。
鉄塔に登る道が西麓からある。(地図)
鉄塔への登り口から少し南へ行った所に宗源院にあった神代勝利の墓碑が移されている。宗源院の境内もまたダムに沈んでしまった。