元亀元年(1570年)大友氏によって築かれたと云われる。
豊後の大友宗麟が佐嘉の龍造寺隆信を攻めるために筑後の高良山に布陣、その後、戸次氏、吉弘氏、臼杵氏らが肥前に侵攻すると、江上、横岳、馬場氏ら肥前東部の国人領主、さらには島原の有馬、大村、西郷らも大友に呼応し、龍造寺氏は包囲された。
同年8月に大友八郎親貞(親秀とも)が大将として今山に布陣した。圧倒的な兵力差であったが、総攻撃前に酒宴を開いて油断していた大友方は、龍造寺の家臣鍋島信生(のちの直茂)の奇襲を受けて混乱状態となり、大将親貞が討ち取られると壊滅した。
今山陣所は今山の北方に聳える標高245mの山に築かれている。
船塚古墳の東側から北へ登っていく農道沿いに赤坂山展望台があり、ここに「今山古戦場跡」の案内板がある。ここからさらに山上に登っていくと「大友公園」があり、「大友大明神」や「今山古戦場の碑」がある。今山の陣所はここからさらに北西背後の山へ登った所にある。
今山陣所は北西から南東へ伸びた尾根伝いに堀切や曲輪が連なっており、400m以上に渡って遺構が続いている。
南端付近は蜜柑畑として開墾されたようで、その名残の石積などが残る。ここから自然地形に近い尾根を登っていくと虎口のような遺構の残る曲輪に至る。ここから一度降りて北西へ登っていくと土橋状の細尾根があり、その先から削平された曲輪が続く。遺構としては土橋や竪堀、堀切、虎口らしき凹みがあるが、全体的に曲輪は小さい。北端はそのまま堀切で遮断することなく終わっているようである。
「大友公園」の道標が出ているのでそれにしたがって行くと、「赤坂山展望台」の分岐がある。この展望台公園に「今山古戦場跡」の案内板がある。
「大友公園」まで林道が通じているが、軽トラでもなければ登っていくことはできないので、展望台に駐めて歩くのが良いだろう。大友公園は林道終点から西へ登り、動物除け柵を越えた所にある。
陣所はこの公園から奥へ登っていった所にある。
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