築城年代は定かではない。城主は麻生民部少輔と伝えられる。 また、九州探題渋谷氏の居城とも云われ、その後大内氏の家臣遠田弘常が城督を務めたとも云われる。
天正14年(1586年)一ノ岳城に籠もった筑紫広門を攻めた島津軍が向城として亀ノ尾城に陣取ったとも云われる。
亀ノ尾城は南畑ダムの北に聳える標高421.9mの峰一帯に築かれている。西の谷間には肥前と筑前を繋ぐ街道が通り、街道を挟んだ西の峰には一ノ岳城がある。
亀ノ尾城は亀ノ尾峠の東上の峰から南東へ伸びた尾根筋に城郭遺構が拡がっており、南北500m程の規模である。北端の最高所に曲輪があり、南を除く三方の尾根に堀切を設けている。南下には南北に伸びた尾根に城内で最もきれいに削平された曲輪があり、南端に土塁が残る。これらの部分が亀ノ尾城の中心部であるが、ここから南の尾根にも不明瞭ながら城郭遺構が続く。
南の城郭遺構は標高421.9mの峰を最高所としているが、削平は不十分で自然地形を多く残す。ここから東と南の尾根に削平地が拡がり、南端に堀切が残る。
ダムの所から谷沿いに入って行く道があり「筑前・肥前街道」の標識がある。これを登っていくと堀切のような切通の峠に至り、ここが亀ノ尾峠。この峠から登れば堀切がある。
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