築城年代は定かではない。鎌倉時代に千葉氏によって築かれたのが始まりとも云われるが定かではない。
戦国時代に肥前国勝尾城主であった筑紫惟門が改修して重要な拠点となっていた。永禄10年(1567年)筑紫惟門は勝尾城を逃れて一ノ岳城に入り大友氏と戦ったが降伏した。
天正14年(1586年)島津氏によって勝尾城を攻略され、筑紫広門は大善寺に幽閉された。このとき一ノ岳城は秋月氏の持城となった。しかし翌天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐によって島津氏が撤退すると、筑紫広門はすぐさま一ノ岳城を奪還し、さらに勝尾城をも奪い返した。これによって筑紫広門は秀吉より筑後国上妻郡に一万八千石を与えられ筑後国山下城主となった。
一ノ岳城は筑前と肥前の国境に近い標高648mの一ノ岳山頂に築かれている。国土地理院の地図では西の三角点のある標高695.7mを一ノ岳としているが、一ノ岳城があるのはその東方である。
主郭は山頂でそこから南へ伸びた尾根に曲輪を展開する。主郭は西側面に石積があり、南尾根の曲輪にも所々石積を見ることができる。主郭から西へ降りた山腹には畝状竪堀群が南北に伸びており、北端は堀切、南端付近は畝状竪堀群の下部にも横堀が存在する。
一方東下の尾根鞍部には林道による改変が多いが、しっかりとした隅石のある石垣がある。また東の峰の上には小さな曲輪があり、東に土塁が付いて虎口の開口、外側にはハの字になった竪堀が残る。
南畑ダム沿いにある空き地に車を駐め、そこから林道を歩いて行くと一ノ岳への登山道の標識がある。
最寄り駅(直線距離)