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長門国府
山口県下関市長府宮の内町山陽道に位置する長門国は、延喜式の格付けでは中国・遠国である。
長門の国府は豊浦郡にあった。長門国二宮忌宮神社一帯と見られているが、いまだ明確な遺跡は発見されていない。
忌宮神社
山口県下関市長府宮の内町延喜式大社で長門国二之宮。祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇。
乳母屋神社
山口県下関市大字吉見下長門国三之宮の乳母屋神社は大正時代に大錦津見神社を合祀し、現在は龍王神社となっている。祭神は玉依姫巫命(たまよりひめのみこと)、天津児屋根命(あまつこやねのみこと)などである。
乳母屋神社は孝元天皇...
長門国分寺
山口県下関市長府宮の内町長門国分寺下関市長府宮の内町にあった。
中世は大内氏さらに毛利氏による庇護を受け、江戸時代には長府毛利氏の庇護を受けていたが、明治維新後に衰退した。現在の国分寺は真言宗の寺院で、明治23年に下関市役...
周防国府国史跡
山口県防府市国衙山陽道に位置する周防国は、延喜式の格付けでは上国・遠国である。
周防国府は防府市国衙に置かれていた。この一帯には「朱雀」・「国衙」・「築地」など関係地名が残されており、一町単位に縦横に走る道も多...
周防国分寺国史跡
山口県防府市国分寺町周防国分寺の創建年代はわかっていないが、「続日本紀」に周防国分寺の名前が出てくることから天平勝宝8年(756年)以前の建立である。
現在の国分寺は真言宗で御本尊は薬師如来である。現在の金堂は国指...
佐々木小次郎の墓
山口県阿武郡阿武町福田下江戸時代初期の剣豪である佐々木小次郎は慶長17年(1612年)4月13日に巌流島で宮本武蔵との決闘で敗れ死亡した。佐々木小次郎の妻ユキは小次郎の遺髪を持ってこの地へ逃れ、正法寺に身を寄せて尼となり、小...
大内義隆供養塔(御船子)市文
山口県萩市片俣周防の戦国大名であった大内義隆は天文20年(1551年)家臣の陶晴賢の謀叛により大寧寺に逃れて自刃した。このとき義隆の側室の子がこの地へ逃れて養雲院の住職となり、大内義隆、正室、側室を供養するたに建立...
吉川広家終焉之地
山口県岩国市通津吉川広家は毛利元就の次男で吉川家の家督を継いだ吉川元春の三男である。
長男元長が没し、次男元氏が他家の家督を継いでいたことから吉川家の家督を継ぎ、関ヶ原合戦の後は周防国岩国藩初代となる。
通津...
凌雲寺跡(大内氏史跡)国史跡
山口県山口市中尾凌雲寺は周防の守護大名大内氏の三十代大内義興を開祖とする寺院で、永正4年(1507年)頃に創建されたと伝えられる。
南側に東西方向に伸びた石塁があり、入口には階段が残る。境内の一角に大内義興とそ...
萩反射炉国史跡
山口県萩市椿東字前小畑反射炉とは西洋での金属溶解炉技術で、日本では佐賀藩が嘉永4年(1851年)に反射炉を完成させたのが最初である。佐賀藩に続いて薩摩藩、韮山代官所、水戸藩、萩藩などが続いている。
萩藩では安政5年(...
三田尻御舟倉跡国史跡
山口県防府市三田尻3三田尻御舟倉跡は萩藩毛利家の水軍拠点の一つである。関ヶ原合戦の後、防長二カ国に減封となった毛利家は萩城を居城として萩藩となった。当初御船倉は下松市に設けられたが、慶長16年(1611年)に三田尻に移さ...
厚狭毛利家墓所(洞玄寺)市文
山口県山陽小野田市郡西下津一(洞玄寺)毛利元就の五男元秋を祖とする厚狭毛利家は、三代元宣より厚狭に所領を賜って厚狭毛利氏館を構え、萩藩毛利家の一門として明治まで続いた。
洞玄寺には厚狭毛利家墓所(山陽小野田市指定文化財)があり、二代...
厚狭毛利家菩提所(妙徳寺)
山口県山陽小野田市郡毛利元就の五男元秋を祖とする厚狭毛利家は、三代元宣より厚狭に所領を賜って厚狭毛利氏館を構え、萩藩毛利家の一門として明治まで続いた。
厚狭毛利家の菩提寺としては厚狭毛利家墓所(洞玄寺)があるが、こ...
内藤隆春墓所
山口県山口市徳地小古祖内藤隆春は大内家の家老の家柄で長門守護代を勤めていた。毛利元就の嫡男隆元の夫人である尾崎局の弟であり、毛利輝元の叔父にあたる。大内が滅亡して毛利に従った後は荒滝城主などを務めたが、宍戸元秀の子元盛を養...
大村益次郎生誕宅跡市史跡
山口県山口市鋳銭司大村益次郎は文政8年(1525年)5月3日に長州藩の医者の子として生まれた。医学を学び、蘭学、洋学、漢学などを学び、嘉永6年(1853年)には蘭学者として宇和島藩伊達家に招かれて禄を得る。その後、長州...
大村益次郎墓所国史跡
山口県山口市鋳銭司大村益次郎は文政8年(1525年)5月3日に長州藩の医者の子として生まれた。医学を学び、蘭学、洋学、漢学などを学び、嘉永6年(1853年)には蘭学者として宇和島藩伊達家に招かれて禄を得る。その後、長州...
志賀親次の墓
山口県宇部市小野志賀親次は豊後の大友氏の家臣で岡城主であった武将である。一派的には「シガチカツグ」とされるが、この墓所にある看板には「シガチカヨシ」とルビが振ってあるので、後者を採用している。
志賀親次は九州を...
国司一族の墓(天龍寺)市史跡
山口県宇部市奥万倉国司氏は高師泰の子師武の子孫を称し、安芸国高田郡国司庄を名字の地とした一族で、毛利家の重臣として活躍した国司元相がいる。江戸時代には萩藩毛利家寄組に属し、近くに国司氏の館がある。
天龍寺の墓地に...
毛利元鎮の墓
山口県下関市豊田町大字殿居毛利元鎮は毛利元就の九男で小早川隆景の養子となった毛利(小早川)秀包の嫡男である。母は大友宗麟の娘孝子君(引地君)であった。小早川秀包は筑後国久留米城主であったが、関ヶ原合戦で西軍に属し、その帰路赤間...
長府毛利家墓所(笑山寺)県史跡
山口県下関市長府川端2長府藩毛利家墓所は功山寺、笑山寺、覚苑寺の三ヶ所にあり、この笑山寺には二代藩主毛利光広と七代藩主毛利師就の墓がある。
笑山寺は長府藩初代毛利秀元の父で毛利元就の四男毛利元清の法号「洞雲寺笑山常快...
阿川毛利家墓所
山口県下関市豊北町大字阿川江戸時代に萩藩毛利家の一門家老であった阿川毛利家の墓所で、6代広規から17代までのうち14代親彦を除く歴代当主の墓が残る。
阿川毛利家墓所は阿川毛利家館の東側で郷校時習館跡の碑から山へ入って行っ...
渡辺飛騨守宝篋印塔市史跡
山口県岩国市錦町広瀬渡辺飛騨守長は安芸毛利氏の譜代家臣で、毛利元就、隆元、輝元の三代に仕えた。
慶長5年(1600年)毛利輝元は関ケ原合戦に敗れて防長二カ国に減封となり、渡辺氏は玖珂郡広瀬村、湯野村や長門の厚東郡などで...
長府毛利家墓所(功山寺)県史跡
山口県下関市長府川端1長府藩毛利家墓所は功山寺、笑山寺、覚苑寺の三ヶ所にあり、この功山寺には初代毛利秀元、5代毛利元矩、9代毛利匡満、10代毛利匡芳、11代毛利元義、12代毛利運、14代毛利元敏の墓、毛利秀元の父元清の生母...
長府毛利家墓所(覚苑寺)県史跡
山口県下関市長府安養寺3長府藩毛利家墓所は功山寺、笑山寺、覚苑寺の三ヶ所にあり、この覚苑寺には3代毛利綱元、6代毛利匡広、13代毛利元周の墓などがある。
覚苑寺の辺りは平安時代に長門鋳銭所が置かれた場所で国指定史跡...
大内義長の墓(功山寺)
山口県下関市長府川端1大内義長は周防山口を拠点とした戦国大名大内氏の第32代当主である。大内義隆が家臣の陶隆房(後の陶晴賢)の謀叛によって没した後、義隆の猶子となっていた豊後の大友宗麟の弟晴英が大内氏の家督を継いで義長と名...
村上武吉夫妻の墓町史跡
山口県大島郡周防大島町内入村上武吉は瀬戸内海に浮かぶ能島を本城とした能島村上氏の当主である。
豊臣秀吉の時代になると小早川隆景の家臣となっており、筑前に移っていたが、秀吉没後は竹原に居た。隆景没後は毛利家臣となり、関ヶ原合戦...
村上家墓所(正岩寺)
山口県大島郡周防大島町和田(正岩寺)正岩寺にある村上家墓所は中世に瀬戸内海の能島を拠点とした能島村上家の分家の墓所である。 村上武吉の次男景親が和田に所領を与えられて別家をたて、萩藩御船手組となった。
正岩寺の村上家墓所は境内から...
村上家墓所(龍心寺)
山口県大島郡周防大島町西屋代(龍心寺)龍心寺にある村上家墓所は中世に瀬戸内海の能島を拠点とした能島村上家の墓所である。
能島村上家は村上武吉の嫡男元吉が関ヶ原合戦時に伊予へ攻め入ったときに討死したため、元吉の子元武を家督とし、武吉がその...
伝 吉見阿波守の墓
山口県萩市大字上小川西分平山城主の吉見阿波守の墓と伝えられる。
吉見阿波守は三本松城主吉見頼興の子、吉見安房守頼員と考えられている。
伝 吉見阿波守の墓は平山城の北東麓近くの尾根先にあり、小さな基壇の上にたてられた石...
英雲荘(三田尻御茶屋)
山口県防府市お茶屋町10武家屋敷
毛利秀包の墓(西楽寺)
山口県下関市豊北町滝部3099(西楽寺)墓碑
三澤家墓所(覚天寺)
山口県下関市豊北町大字田耕墓碑
井上豊後守就正の墓市史跡
山口県岩国市周東町三瀬川墓碑
天野隆重・元嘉の墓市史跡
山口県岩国市周東町上久原(通化寺)墓碑
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