築城年代は定かではないが弘安年間(1278年〜1288年)頃に八木為時が築いたとも云われる。
正平11年・延文元年(1356年)栗野三位中将より末延右兵衛尉信末が大忍荘東川の内、末延を賜わった。
その後、末延治部という人物がいたとされる。末延氏は天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐で長宗我部氏に従って豊後国戸次川合戦で島津氏と戦い、最後の当主は末延小太郎で朝鮮の役に長宗我部氏に従って渡海し慶長の役で討死し、子孫は帰農したという。
末延城は香宗川の北岸にあり、南へ伸びた丘陵の先端頂部に築かれている。
この城の位置は「高知県埋蔵文化センター」の遺跡情報管理に掲載されている位置と、「高知県中世城館跡分布調査報告書」に掲載されている位置が微妙に異っている。多くの場合、前者の位置が正しいので位置情報を入力する際に悩んだのだのを、間違った山に登って思い出した…。ということで、一旦間違って西の標高198mの山に登って散々歩き回った挙げ句に本来の城跡を見付けた次第。
末延城は標高198mの山の東にある丘陵に築かれている。南の尾根先に民家が建っており、間違った山から降りてきた所、ちょうど庭に出ていたご婦人に聞くと民家の直ぐ奥の山だと教えて頂いた。城は北の尾根を二重堀切で断ち切って独立させ、堀切に面して土塁を設けた主郭があり、南と東西に小段を設けている。東西には堀があったというが、畑にした際に埋めたということである。実はこの家は末延氏の末裔で、帰農して以来そのまま住んでいるのだと云う。末延氏の祖は物部氏であること、最後の当主小太郎の事など色々興味深いことを教えて頂いた。
県道221号線沿いを走っていると橋の所に案内板が出ている。橋を渡って右カーブとなるが、そこの左上にある家が末延家で、この奥に城跡が残っている。
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