築城年代は定かではないが別役七左衛門重忠によって築かれたと云われる。 別役氏は在原氏の末裔(一説に橘氏とも)という。
重忠の後は子の七郎兵衛勝久が継いだが、勝久は槙山小松氏の養子となり、三郎左衛門が継いだ。しかし、天正15年(1587年)三郎左衛門は豊臣秀吉の九州征伐で豊後国戸次川合戦で討死し、家督は三吉郎義重が継いだ。義重の時代には東川・西川・和食・夜須・馬ノ上の五ヶ村で四百五十石(四百二十石とも)を領したが、長宗我部氏が改易となった後は帰農したという。
伝承として三吉郎義重は沢の城主と戦って討死したともいわれる。
別役城は香宗川の源流に近い谷の奥にあり、西へ突き出した尾根の頂部に築かれている。
現在は竃戸神社が祀られており、北から東側にかけて土塁が残っている。東の尾根は堀切が設けられていたが、現在は埋められている。西下に墓地となっている削平地があり、その下にももう一段腰曲輪がある。
県道221号線をひたすら奥へ走って行くと鳥居が見え案内板が設置されている。ここから参道を登ったが、このまま県道を進んで神社の東側の尾根付近からも神社へ入る道があり、こっちの方が道幅が広く駐車するにも良い。
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