築城年代は定かではない。
山川氏の城で、山川新左衛門は「大忍庄東川西分専当職」につくなど、畑山氏(安芸氏)と結びついていた。
天文年間(1532年~1555年)になると長宗我部氏は香宗我部氏の結び、山田氏を滅ぼした。その後、「大忍討ち入り」によって大忍庄から畑山氏(安芸氏)の勢力も一掃され、山川氏も滅亡した。
その後は長宗我部氏の家臣上村五郎左衛門の居城となった。
山川土居城は香宗川が大きく蛇行して流れる地点の、南へ張り出した山の南端頂部に築かれており、現在は主郭まで山道が付いている。
『日本城郭大系』には「62 中山川土居城」と「79 山川城」が掲載されているが、いずれも当城を示している。
山川土居城は南へ伸びた尾根の先端に主郭があり、そこから西へ伸びた尾根に曲輪を展開している。堀切の幅はそれほど広くないが、垂直に近い切岸とその深さで、群郭式のような独立性の高い曲輪群となっている。
主郭は南東の最高所にあり、北から西にかけて土塁が巡っている。主郭南東下に曲輪IIがあり、三方が土塁囲みとなるが、西の土塁は主郭虎口に繋がるスロープとなる。
主郭から北へ伸びた尾根は五重堀切で遮断しており、主郭に最も近いところと北から2番目の堀が大堀切となる。一方西尾根も大堀切で曲輪III、IVを切り離している。東側は切岸下が緩斜面となり仕切土塁が確認できるが、切岸は甘く曲輪とするには不十分な加工となっている。
西へ伸びた尾根には堀切2、3で区画された曲輪III、IVがある。曲輪IIIは北に高土塁を設け、南北二段の曲輪で、畑として利用されていたようである。曲輪IVは東の堀切側に土塁があり、土塁に面した段が一段高く、西から北が一段低い。土塁の北側は開口しており、虎口と思われる。
曲輪IVの西側は堀切4で遮断するが、堀切4から南へ伸びた堀はそのまま横掘6に続き、東端は竪堀7へと落ちている。
南山腹にはV、VI、VIIの削平地があり、一部墓地などになっているが、この辺りは曲輪であったと思われる。
香宗川に架る橋の入口に案内板が設置されている。ここから奥に進むと山腹にある民家下に駐車スペースがある。城へは右側の公園、阿弥陀堂を経由して山に入る道がある。
最寄り駅(直線距離)