築城年代は定ではないが永禄年間(1558年〜1570年)頃に南部晴政によって築かれたと云われる。 三戸南部氏は甲斐国巨摩郡南部郷出身で、文治5年(1189年)奥州平泉の藤原氏討伐の戦功によって源頼朝より糠部の地を賜り、本三戸城を居城とした。
天文8年(1539年)24代南部晴政のとき、家臣の赤沼備中による放火で聖寿寺館は焼失する。これにより晴政は三戸城を新たに築いて居城を移し、聖寿寺館は本三戸城と呼ばれるようになった。
天正18年(1590年)26代南部信直は豊臣秀吉による小田原征伐に参陣した功によって、南部七郡(糠部・岩手・紫波・稗貫・和賀・閉伊・鹿角)の領有が認められ近世大名となった。
天正19年(1591年)かねて南部信直とは家督争いなどで不和であった九戸城主九戸政実が反乱を起こした。南部家中随一の精鋭と云われる九戸氏の反乱は南部氏内部では収めることができず、信直は豊臣秀吉に援軍を要請する。秀吉は豊臣秀次を総大将、軍監に浅野長政として奥州再仕置の軍勢を派遣し、九戸政実の乱を鎮圧した。
南部信直は蒲生氏郷が改修した九戸城を受け取ると、福岡城と命名して居城を移した。しかし、居城が所領の北に偏っていたため、新たに盛岡城を築きはじめ、寛永10年(1633年)利直の時代に完成し、以後南部氏は盛岡城を居城として明治まで続いた。
三戸南部氏の居城が福岡城から盛岡城へと移った後も三戸城は城代が置かれ維持されていた。貞享年間(1684年〜1688年)頃までは城代が置かれていたが、その後は代官が支配している。
三戸城は馬淵川と熊原川の合流する地点にある比高90m程の独立丘陵に築かれており、現在は城山公園として整備されている。城内には御三階櫓を模した建物も建っているが、見所は綱御門付近の石垣から本丸に至る通路、そして搦手側の鍛冶屋敷門付近の石垣である。
東西およそ1kmに及ぶ独立丘陵全体を城域とし、山上に家臣団の屋敷地を割り当てていた。
南西の大手から登ると石垣を用いた虎口である綱御門を通り、武者溜まりを経て鳩御門を入る。ここには目時館主目時筑前邸(三百石)、医者屋敷、赤石館主桜庭安房邸(二千石)、剣吉城主北左衛門佐信愛邸(二千石)、名久井城主東彦左衛門邸(三千石)、石亀館主石亀七左衛門邸(二千石)がある。それを越えるとケヤキ御門があり、南部彦九郎正直邸(五千石)、南部彦八郎利康邸、石井伊賀邸(二千石)、石井善太夫邸、鳥谷大炊邸がある。これを食えると石垣を用いた大御門があり、本丸、谷丸、淡路丸といった主郭部に至る。
搦手側は上段御馬屋、鶴池・亀池、奥瀬与七郎邸(三百石)があり、搦手口で石垣を用いた鍛冶屋敷門跡がある。
搦手門(移築 城門)
表門(移築 城門)
南西麓、三戸町役場の辺りから城山公園に登る車道がある。ゴールデンウィーク期間には桜祭りが開催されており、この期間は駐車場が有料になる。
最寄り駅(直線距離)