築城年代は定かではない。白鳥城との別名から安倍頼時の子則任が築城したとの伝承があるが、これを裏付ける史料はない。
九戸氏による築城としては、明応年間(1492年〜1501年)九戸光政によって築かれたとする説や永禄年間(1558年〜1570年)頃に九戸政実によって築かれたとする説などがある。
天正19年(1591年)九戸政実は三戸城主南部信直に対して挙兵する(九戸政実の乱)。政実の反乱は天正8年(1580年)南部晴政・晴継と南部家当主が相次いで没し、その家督を巡って田子信直(後の南部信直)と九戸政実の弟実親が争ったことや、信直が小田原城攻めに参陣して南部宗家の安泰を計るとともに、九戸氏らを家臣として組み込もうとしたことに対する反発などがその発端と考えられている。
九戸氏の反乱に荷担した櫛引城主櫛引清長は三戸方の苫米地館を攻めたがこれを落とせず九戸城に入った。また、久慈城主久慈直治・政則父子も九戸城に入り籠城した。
三戸城主南部信直は九戸氏の反乱を家中でおさめることができず、豊臣秀吉に援軍を求めた。秀吉は豊臣秀次を大将、浅野長政を軍監として奥州再仕置軍を派遣した。奥州再仕置軍が九戸方の姉帯城、根曽利城を攻め落とすと九戸方は全ての支城を捨てて九戸城に立て籠もった。仕置軍が九戸城の堀際まで攻め寄せて城を包囲すると、長興寺の和尚に説得された九戸政実は降伏開城した。
九戸氏が滅亡すると蒲生氏郷によって九戸城は近世城郭として改修され、南部信直に渡された。信直は九戸城を福岡城と改名して三戸城より移り居城とした。このとき松の丸を居所としたと伝えられる。しかし、居城が所領の北に偏っていたため、新たに盛岡城を築きはじめ、寛永10年(1633年)利直の時代に完成し、福岡城は廃城となった。
九戸城は馬淵川と白鳥川が合流する台地の上に築かれており、現在は国指定史跡として整備されている。
段丘に面した要害で、北端にある本丸の東から南側を二の丸が覆うようになっている。本丸は方形で東と南に虎口を開き、両虎口ともに枡形となっている。本丸には石垣が残されており、これは落城後に蒲生氏郷によって改修されたときの遺構とされる。
主郭部の周囲には東に石沢館、若狭館、南西に松の丸があり、それぞれ案内板が設置されている。
以前は二の丸に無料駐車場があったが、西麓にガイダンス施設とともに駐車場が新しくできたようである。
駐車場は盛岡地方裁判所の近くで道標が出ている。
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