築城年代は定かではない。城主は櫛引氏で、南部光行の四男宗朝の子孫を称している。
櫛引氏は当初根城南部氏に従っていたが、後に三戸南部氏に従った。永禄10年(1567年)櫛引弥六郎は名久井城主東政勝の助けを借りて根城を攻撃したが、元亀2年(1571年)南部政栄によって攻撃され所領の一部を失った。
天正19年(1591年)九戸城主九戸政実が反乱を起こすと、城主の櫛引河内守清長・清政兄弟は九戸氏に味方し九戸城に入った。この戦いで清長は討死、清政は九戸政実とともに降伏したが斬首となり櫛引氏は滅亡した。
櫛引城は馬淵川東岸の段丘の上に築かれていた。『青森県の中世城館』によれば、櫛引城は本郭、外郭、出丸の三つの曲輪が成っていたようである。現在畑となっている本丸は東側に空堀が残っている。