詳細不明。
長享4年(1488年)には扇谷上杉氏と山内上杉氏によって近くの須賀谷原で合戦が行われており、近くの平沢寺に山内上杉方の陣が置かれていたが、このときに小倉城が築かれていたかどうかは定かではない。
城主は詳らかではないが、北条氏重の家臣遠山光景、松山城主の上田氏が城主として伝えられている。居館があったとされる東麓の大福寺には「遠山衛門大夫藤原光景室葦園位牌」があり、城主遠山氏室の位牌と伝えられている。
小倉城は大福寺の西背後に聳える標高136mの山に築かれている。南西を除く三方を槻川が巡る要害で背後の尾根は青山城へ通じる。
小倉城は山頂の主郭を中心に北、南、南西の三方に伸びる尾根に曲輪を配している。 関東にしては珍しく石積のある城で、特に南へ伸びた尾根の曲輪群に石積が良好に残されている。
主郭は尾根の中心にあたる山頂部で東側が一段高い地形になり、西側は土塁が巡っている。虎口は東端、南、そして北西にある。東端の虎口は北尾根の曲輪群へ通じる虎口で、内部は通路が付いている。南の虎口は平入で南尾根の曲輪群へ通じる。北西の虎口は内折れの土塁が付いた虎口で、西下の大堀切へ通じる。
主郭から北へ伸びた尾根には桝形状の虎口が残り、北尾根の南下の通路から入るようになっている。北尾根の曲輪群は崩落の危険性があるということで、現在は立ち入り禁止になっているが、縄張図では二重堀切がありその先に小段が続いている。
南尾根は主郭の虎口から出ると小郭があり、岩を垂直に削った堀切を挟んで石積された曲輪がある。
南西尾根は主郭と大堀切で区画され、土塁で囲まれた長方形の曲輪がある。西端部分は北側が櫓台状の幅広の土塁となり、西下の空堀に対して張り出している。
東麓の大福寺に駐車場があり、そこから登山道が付いている。
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