詳細不明。『滑川村誌』によれば、元亀3年(1572年)松山城の出城として築かれたのが始まりで、普請奉行は山崎若狭守、城主は山田伊賀守。天正3年(1575年)山田伊賀守宗道が没ししたのちは山崎若狭守が城主となるが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで前田利家の軍勢によって攻められ落城したという。
羽尾城は比高10mほどの台地の上に築かれている。
城の中心となる部分は畑や宅地になっており見学が難しいが、北側の道路に面して堀と土塁が確認できる。
堀と土塁は主郭の北側をコの字に囲むように設けられている。
北側の道路沿いに「羽尾打越・金光地集会所」があり駐車可能である。西隣の民家前の道を南へ登ると羽尾城跡の標柱があり、両脇に土塁や堀が残る。
最寄り駅(直線距離)