築城年代は定かではない。寿永2年(1183年)源頼朝が青鳥野に陣をとったとの記述が「源平盛衰記」にあり青鳥の地名の初見とされる。 また、永享12年(1440年)の結城合戦でも上杉憲実がこの辺りに在陣したとも云われるが、青鳥城があったかどうかは定かではない。
天正年間(1573年〜1592年)には山田伊賀守直安が城主であった。
青鳥城は都幾川北岸にあり、段丘の南端に築かれている。 段丘を瀬にするように方形区画の本曲輪を置き、それを取り巻くように二の郭、三の郭を廃していた。
本郭は畑となっているようで、南の民家脇から道が付いているが庭先を通るようだ。東側の土塁上に天神社が鎮座しており、ここから見ると畑として整備されているのがわかる。
案内板はこちらではなく、二の郭にあり台地の上は宅地や畑となっている。二の郭は北側に土塁と堀が残されており、中央付近に折れを伴っている。また、西側の道路沿いには「青鳥城址の板碑」があり鎌倉時代後期のものという。
関越道東松山icの北西の台地の上、青鳥小学校の西の台地が城址で、台地の上の住宅地へ登った所に案内板と駐車場がある。
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