安永9年(1780年)内藤学文によって築かれた。 内藤氏は寛延2年(1749年)本多忠央が遠江国相良へ転封となり、かわって上野国安中より二万石で内藤政苗が入封する。
内藤氏は城持大名であった為、幕府の許可を得て佐久良城を築いた。 しかし度重なる水害により悩まされた結果、紀州徳川宗将の四男学文が養子となって家を継ぐと童子山に移転築城を願い出て許され、佐久良城の領域を含む拳母城が築かれた。その後も内藤氏が続いて明治に至る。
拳母城は別名を七州城と呼ばれるが、これは近江国・伊勢国・尾張国・美濃国・三河国・遠江国・信濃国の七か国が見える地に築かれた事に由来する。
現在は美術館などの敷地となり、遺構はほとんど残されていないが本丸隅櫓が復興されている。