築城年代は定かではない。 文安年間(1444年〜1449年)頃に今川氏の一族関口刑部少輔満興によって築かれ、その弟が長沢直幸と名乗り長沢城にいた。 長禄2年(1458年)松平信光が長沢の城を攻めとり、長男親則に長沢を与えて長沢松平氏の祖となった。しかし、これらの長沢城がこの岩略寺城・長沢古城・登屋ヶ根城のいずれを示すのか、はっきりしたことはわかっていないようである。
その後、今川氏の勢力が三河に及ぶと天文16年(1547年)には牧野田三郎が長沢への兵の配置を命ぜられ、天文20年(1551年)には匂坂六兵衛門長能が長沢城への在城と普請を命ぜられるなど、西三河との境目として重要視された。
桶狭間合戦の後、糟谷善兵衛・小原藤五郎鎮宗を置いて家康の侵攻に備えたが、永禄4年(1561年)に家康によって攻略され、家康は深溝松平伊忠を長沢城に置いて今川氏に備えた。
岩略寺城は長沢小学校の南に聳える標高169mの御城山に築かれており、現在は史跡として整備されている。
主郭は山頂にあり北側が浅い溝と土塁で区画されているが、この部分が遺構なのか改変なのかわからない。区画された南側はやや歪んでいるが正方形に近く、三方を土塁が巡って東側に虎口1が開口する。土塁は南西隅が一番高く、南東隅はやや東へ張り出している。
主郭の北下には三日月堀と表示された横堀2がある。横堀の上には小郭Aがあるが、現状では独立性がたかい曲輪となっている。
山頂から各支尾根に曲輪が展開しているが、堀切による遮断は北西尾根の堀切1と東尾根の堀切4のみである。北東尾根は曲輪VIIの下に横堀3があるが、尾根先に堀切は確認できない。北尾根も曲輪Xの南端に虎口があり、谷筋から登ってくるルートがあるが、ここも堀切はない。
北西の谷筋の登山道脇には石塁があるが、これはシシ垣のようである。
長沢小学校の南西側にある山が城山で、名電長沢駅近くの国道1号線長沢交差点から南の集落側に入り、道なりに進むと城山への林道入口の道標が出ている。林道の終点に駐車場があり、石碑と案内板が設置されている。
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