築城年代は定かではないが治田五兵衛によって築かれたと云われる。 その子、治田山城守の時代には白瀬城主近藤弾正左衛門吉綱を滅ぼすなど、この辺りではかなりの勢力を持っていたといわれる。
永禄10年(1567年)滝川一益によって攻められた時は落城せず、天正年間(1573年〜1592年)に織田信長に降ったという。
また一説に永禄年間(1558年〜1570年)には楠正成八代の孫という楠七郎左衛門正具の居城であったといい、永禄10年(1567年)に織田信長によって攻められたという。
治田城は青川の北にある丘陵の東頂部に築かれている。北側は大きく谷が入り込み現在は麓口溜という溜め池がある。
主郭は西の頂部にあり西端に櫓台がある。西尾根には堀切を設け、その南側には土塁で囲まれた平地がある。東に一段、北側にも一段の削平地がある。
城山の北側にある麓口溜という溜め池の土手に案内板が建っている。
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