天正14年(1586年)木造長政によって築かれたと云われる。
木造氏は伊勢国司北畠一族で木造城主であったが、木造具政のとき織田信長に通じて伊勢侵攻に加担し、北畠の養子となった織田信雄に仕えた。
信長の死後、織田信雄と羽柴秀吉が対立し小牧・長久手合戦へと発展すると戸木城に籠城して秀吉方の蒲生氏郷の攻撃を受けたが、小牧・長久手合戦の和議が整うと開城し退去した。
天正14年(1586年)木造長政は織田信雄から10274貫の所領を員弁郡に宛行われ居城として築いたのが田辺城であった。長政は織田信雄が秀吉によって改易されると、織田秀信に仕えて岐阜へ移るが、関ヶ原合戦で西軍に与して改易となり、福島正則に仕えて広島へ移った。
田辺城は田切川と二之瀬川の間を南北に伸びた丘陵に築かれている。
田辺城の主郭は高土塁と深い空堀で囲まれた方形の曲輪で、北を除く三方に虎口が開口する。南西側にあるのか二郭とされ、ここも南側に虎口があり、現在その先に模擬門が作られている。
主郭から西へ伸びた尾根先に土塁と空堀で区画された曲輪IIIがある。さらに主郭から北へ伸びた台地の上には土塁と溝で区画された屋敷跡とされる遺構が残されていたが、この部分は道路建設によって多くが消滅するようで、訪れたときには道路西側はほぼ整地されていた。
南側にある「和デイサービスいなべ」の敷地から模擬門を経由して入るのが一般的。たまたま職員の方がいたのでお断りして駐車させていただいたが、下にある墓地の辺りにも空き地があり駐車可能である。
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