築城年代は定かではない。はじめ白瀬氏の城であったが、永禄年間(1558年~1570年)には近藤弾正左衛門吉綱の居城となっており、永禄4年(1561年)治田城主治田山城守に攻められ落城、吉綱は討死したという。
白瀬城は藤原工業団地の南、員弁川とその支流の間を細長く東西に伸びた丘陵に築かれている。
南は員弁川に面した崖地形で、北にも細い川が流れて低湿地帯となる。主郭はこの丘陵の北西端に築かれており、そこから南東方向に伸びた尾根に主に曲輪が配されている。
主郭の北中央にある虎口1は外側にかざし土塁があり、現状曲輪IIIと西側の両方に通じているが、曲輪III側が閉じていたとすれば外枡形となる。また西側には櫓台が張り出しており、背後に横矢をかけることが可能で、そこに至るルートは曲輪III、IVからも横矢がかかる。
一方東側にも虎口2がある。虎口2の東側は高土塁があって曲輪IIと区画するが、ここも中央が開口する。高土塁との間には浅い空堀状地形があり、南端は土橋になっている。空堀状地形からはそのまま曲輪IIIへと繋がる。
曲輪IIは鉄塔がたっており、これに伴う発掘調査は実施されている。主郭との間は高土塁の間が開口し、土塁下には小さな窪みを確認できることから本来空堀があった可能性がある。また、東の曲輪Vには南東端に入口があり、さらに東の曲輪VIも堀切は南端を遮断せず土橋を残してあり虎口である。
東端の堀切1は切通状になり、南側面には城主近藤吉綱の墓がある。ここから南の川を渡って登城するルートもあるようだ。
主郭の西側は高土塁と堀切5で遮断するが堀切5は北側面に伸びるものの櫓台下の辺りで消滅する。
川を挟んだ北側にある東森中遺跡では近世初頭の住居跡数棟を検出しており、白瀬城に関係する遺跡と考えられている。
北側にある東中森遺跡のあたりから鉄塔整備道の橋を渡って城内に入るルートと、南の農道から近藤吉綱の墓を経由して入るルートなどがある。
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