築城年代は定かではないが康正年間(1455年〜1457年)に朝倉氏によって築かれたと云われる。朝倉氏は室町幕府の奉行衆であった。
朝倉氏は同族の市場城朝倉氏、茂福城茂福氏、中野城中野氏と結んで勢力を保持していた。
朝倉氏の滅亡には諸説あり、永禄11年(1568年)または天正2年(1574年)織田信長により攻められ落城したとする説、元亀2年(1571年)長島城で謀殺されたとする説である。
保々西城は朝明川北岸の河岸丘陵の南岸に築かれている。 台地の南西隅に単郭の主郭があり、北側一帯に屋敷跡が残る。屋敷跡を含めて遺構は非常に良好に残っている。
主郭は台地の南西隅にあって北から東側に土塁と空堀を巡らせている。虎口は北中央と南東隅に開いており何れも土橋が架かっている。
北の虎口は土塁の北西隅がやや張り出し横矢が掛かる。東の虎口は左に屈折して入る構造で土橋の南側は空堀と土塁が土橋に対して並行になり、横矢が発達している。
北伊勢中央公園を目指せば良いのですが、公園側には案内板がなく入口は一応あって野球場のセンターバックスクリーン裏辺りから入る事ができます。
案内板は南の水田地帯にあり、保々里山公園から道が通じています。
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