慶長6年(1601年)土方丹波守雄氏によって築かれた。それ以前は滝川一益時代の代官所跡であったとされる。 土方雄氏は織田信長・信雄に仕えた土方雄久の長男で豊臣秀吉に仕えて三千石の所領があったが、秀吉没後のに徳川家康と本多正信が画策した「幻の家康暗殺事件」の容疑者として父土方雄久に連座して改易となった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦直前に罪を許された雄氏は徳川家康の命で加賀の前田利家の説得にあたりその功で菰野一万二千石を与えられ大名に列した。
初代雄氏の時代の菰野陣屋は滝川一益時代の代官所跡を修築した程度で、雄氏は主に京の屋敷に住んでいたが、織田信雄の娘八重姫を正室に迎えるにあたって「堀もないような城の主には娘をやれない」といわれ二日間昼夜兼行で堀を設けてたという逸話が残っている。
陣屋の建物と城下町は二代土方雄高の時に整備された。また幕末の明治元年(1868年)には堀と二重の隅櫓を整備した。
現在菰野陣屋跡には菰野小学校が建っている。小学校の南側道路脇に案内板と石碑が建っている。遺構はほとんど残っていないが小学校の北西側、国道306号線付近に堀と土塁の一部が残っている。
城門が金蔵寺と光徳寺に移築され現存している他、隅櫓も菰野町大字池底の民家に移築されて残っているという。隅櫓は探してみたのだがわからなかった。
城門(移築 城門)
城門(移築 城門)