築城年代は定かではないが南北朝時代に千種顕経によって築かれたと云われる。 千種氏は千種忠顕が南朝方として活躍し三重郡二十四郷を与えられ禅林寺城を居城としていた。忠顕の子顕経の時に千種城を築いて禅林寺城から移ったと伝えられる。
永徳年間(1381年〜1384年)の当主千草顕季の時には北伊勢四十八家の棟梁として一千騎を率いていた。
弘治元年(1555年)近江国佐々木六角氏が北伊勢に侵攻すると、千種氏は後藤但馬守賢豊の弟を養子に迎え和睦して千種三郎左衛門と称した。以後六角氏の北伊勢侵攻の拠点となった。
最後の当主千種又三郎は元和元年(1615年)大阪夏の陣で討死し千種氏は滅亡した。
千種城は東へ張り出した丘陵に築かれている。整備された公園には東西二郭あり、西へ続く尾根は大空堀で断ち切っている。
主郭の西の主郭は西と南に土塁を設け、東曲輪へ至る虎口は空堀の中央に土橋を架けている。空堀に面した土塁は東曲輪側に設けられている。
千種小学校の南側を通る県道762号線を西へ進んで行くと右側に公園(ゲートボール場?)がある。そのあたりから南の集落内の道を南西に進んで行くと登り口がある。車はそのまま山の上に駐車できる。
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