築城年代は定かではないが新田上野介義基によって築かれたと云われる。 義基は新田義貞の父朝氏の弟覚義の子とされ、興国元年懐良親王に従って大宰府に下向したと云う。義基は馬ヶ岳城や貫城など諸城を築き一族を城主としたという。
その後城主となった貫宗景は懐良親王と義基の妹との間に産まれた子とされ、故あって義基の子なり、貫氏を名乗ったという。
以前、日本城郭体系に掲載されている縄張図から貫城の位置を掲載していた所、北九州在住の方から位置が誤っているとのご指摘のメールを頂いた。念のため日本城郭体系に掲載された場所も歩いてみたが、縄張図に掲載されているような櫓台や空堀の跡は存在せず、わずかな平坦地が残るのみ切岸の加工は見られない。
城は松尾神社の東方にある南から北へ伸びた丘陵に築かれており、 松尾神社から東方を望めば城台が良く見える。
現在この城台は畑となっているのだが、ちょうど地主の方に話を聞くことができたのでいくつか記載する。 まず、この方形に残る城台には畑にする以前は四方に土塁が残っており、土塁は畑として造成する際に大半を切り崩してしまい、現在は作業小屋の横に南東隅部だけが残っている。土塁は南面は南側へ倒し、それ以外は内側に倒して整地したという。この土塁に関して開口部がなかったのかを聞くと、それらしき所はなく、四方は完全に土塁で囲まれていたとのことで、東斜面に垂直によじ登る小道だけが残っていたという。 また現在ではその場所は覚えていないそうであるが、この付近に「ぬきかもんのかみ(貫掃部頭か)」と書かれた自然石のお墓が存在していたという。
「福岡県の城」によれば、この城台は本丸にある物見櫓で二の丸、三の丸が存在するという。現在、北側は竹薮となっているが、そこから本丸部分へ入る所が虎口のようである。
辺りは道も狭く駐車スペースもないので松尾神社の駐車場を利用することをお勧めする。
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