築城年代は定かではない。等覚寺は英彦山六峰の一つ晋智山等覚寺があり栄えた地域で、応永5年(1398年)には等覚寺の座主堯賢が大友氏の援軍として参戦している。
戦国時代には長野氏の所領でその支城の一つであったが、毛利氏や大友氏などによって攻められ落城している。
等覚寺城は山腹にある南へ伸びた尾根の一つで白山多賀神社(晋智山等覚寺)や山王権現の境内となっている。
曲輪としては南北に長い尾根上に築かれていたようであるが、現在は境内として後世にかなり手をいれているようで、不自然に残された側面からかなりの地表面が削られているようである。
現在確認できる城郭遺構は連続堀切と無数の畝状竪堀群である。北側の尾根は連続堀切であったようで、側面に二重堀切があり、さらに道路部分にも竪堀が大きく残り、これらを含め三重か四重の堀切で遮断していたようである。
この城の最大の特徴は東側面に設けられた畝状竪堀群で、一般的な畝状竪堀群とは異なり、上下二段に組まれている。上下二段に畝状竪堀を配しているのは長野氏の本城である長野城にも見ることができる。
白山多賀神社の駐車場がある。
最寄り駅(直線距離)