天平12年(740年)藤原広嗣によって築かれたのが始まりとされ、 太宰少弐藤原広嗣の乱の時に築かれたと云われる。
藤原純友の乱では神田光貞が立て籠り、以後18代続いたが、保元2年(1157年)平康盛によって滅ぼされた。
戦国時代には大友氏と大内、毛利氏によって激しく争われた。 天正14年(1586年)豊臣秀吉による九州征伐では、黒田孝高が宇留津城攻めの前に陣を構え、黒田氏が中津城に入封すると城代が置かれた。
関ヶ原合戦後は豊前に入封した細川忠興の支城となったが、慶長11年(1606年)頃に廃城となった。
松山城は北九州空港に向かう道路脇に聳える標高127.9mの山頂に築かれている。 現在は周囲が埋め立てられているようであるが、往時は海に半島状に突き出す形になっていたのであろうか。
2006年に訪れたときには無かったのだが、現在は登山道入口に簡易トイレを完備した駐車場が用意されている。
松山城は山頂に一段小高く主郭を置き、周囲を取り囲むように二ノ段がある。そこから東下へ階段状に二郭、三郭と連なっているが、この曲輪を上り下りするための石段が良く残されている。
曲輪の南側は外側に土塁を配した横堀、北から西側側面には畝状竪堀群を設けて防御している。
南麓に登山道があり、「松山城登山口」というバス停の辺りから道標が出ている。それに従って行けば簡易トイレを完備した駐車場がある(地図)。
最寄り駅(直線距離)