築城年代は定かではないが北畠顕吉によって築かれたと云われる。 顕吉は貞和年間(1345年〜1350年)征西将軍懐良親王が九州へ下向した時に随行して大保原で討死した北畠信親の子で、本郷を領して本郷氏を名乗り、代々根津海上の警固をした。
その後、嫡男具信を本長山の城、三男吉房を野前山の城、二男吉信を久津尾崎城に置いて本郷を分領支配した。
天文18年(1549年)吉信より六代の本郷顕季が城主の時、宇留津城主賀来外記入道と領地の境を争って合戦となり、外記入道に攻められて落城、顕季は自刃し廃城となったという。
現在松山神社が祀られている所が城跡だという。境内に向かって登っていく途中に削平地が残る程度であまり遺構は残っていない。
大坂城築城時に小倉城主細川忠興の命によって石が切り出されたといい、残念石が残る。