保元2年(1157年)平康盛によって築かれたと云われるが定かではない。 平康盛は平時盛の六男で豊前守に任ぜられ下向し長野城を築いて長野氏を名乗ったという。しかし「門司・小倉の古城史」によれば、それ以前に古くよりこの地にいた中原系長野氏による創築とされる。
永禄元年(1558年)大内氏を滅ぼした毛利氏は九州にその食指を伸ばし門司城を攻略する。これによって長野氏も毛利氏に属した。永禄2年(1559年)大友義鎮は門司城を攻め一時奪還するも毛利水軍に補給路を断たれ再び毛利氏に奪われる。永禄4年(1561年)大友氏は再び九州北部に侵攻し門司城を巡って毛利氏と対峙したが敗北し、永禄7年(1564年)毛利氏と大友氏は和睦することとなる。この和睦の条件として門司城は毛利氏の持城とし毛利軍は九州より撤退することとなる。
この和睦により大友氏は長野氏に対して長野城の明け渡しを要求したが、長野氏は門司城の支配下にあるとして明け渡しを拒否したため、永禄8年(1565年)大友氏は長野氏討伐の軍を向け長野氏の諸城を攻め落とし長野氏は大友氏に降った。
城は長野地区の南背後にある山塊に築かれており、ちょうど東九州自動車道の長野トンネルの上に位置する。
長野城は畝状竪堀群で著名な山城で、竪堀の総数は250条以上確認でき、日本一とされる。
長野城は南端最高所の主郭を中心に谷を挟んで北に伸びる二つの尾根に展開しており馬蹄形となる。全体的に谷の外側のほうに防御遺構は集中しており、土塁や畝状竪堀群を設けている。
主郭部は最高所I1を中心に北西、北東に伸びた尾根に曲輪が続き、外側となる南側に概ね土塁や畝状竪堀群を配している。 曲輪I3とI5の間には東端を土橋状に残した堀切12がある。畝状竪堀群は上下二段になっている部分がある。
主郭から南西に伸びる尾根は二重堀切15で遮断しており、そのさきは「馬場」とも呼ばれているが自然尾根で間に堀切16がある。
中央の谷の東側、北へ伸びた尾根の先端頂部に曲輪群IIがある。最高所は櫓台状になり、そこから高土塁が伸びる。西に伸びる土塁の外側には横堀から竪堀へと変化して伸びる連続竪堀4がある。 曲輪はII1を最高所として北西にII2が段々と続く。残念ながら先端は削られて残っていないが先行図面ではこの先に堀切があったように書かれている。 この失われた堀切と接続していたと思われる横堀3が南側面にあり、中央が途切れている。この部分の傾斜は緩く、虎口3として機能していた可能性がある。
曲輪群IIの周辺にある畝状竪堀群1、2は複雑で下方から枝分かれして伸びている。
主郭部と曲輪群IIの間には三重堀切6や尾根上に設けた連続竪堀7など見どころである。
中央の谷の西側には曲輪群IIIがある。南端最高所は櫓台で、III1から北へ向かって段々と続くが、この曲輪群は土塁があまり使われていない。 北端は林道で削られているため不明であるが、 西側面には畝状竪堀群21、23、東側面には畝状竪堀群22を設けている。
主郭部と曲輪群IIIとの間には尾根上に設けた連続竪堀17、巨大な堀切20に向かって伸びる畝状竪堀群19など尾根上にも竪堀群を設けている。
長野緑地公園の中央駐車場が近い。午前8時から午後8時まで無料開放されている。中央駐車場からら南へ歩いて行くと道標が直進と右折を指しているが、直進が正解。林道は荒れており車両通行禁止とあるがそのまま歩いていく。
小倉城の近くにある北九州市埋蔵文化財室(地図)には長野城の模型が展示されており、非常に良くできた模型である。駐車場、入場料ともに無料であるので是非見学をお勧めする。
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