築城年代は定かではないが桑原氏によって築かれたと云われる。
桑原氏は土肥実平の後裔を称しており、南北朝時代には桑原伊賀守重信が南朝方として戦って大可嶋で討死したという。
天文11年(1542年)大内義隆が出雲の尼子氏を攻めたときには桑原越中守通兼がこれに従軍している。大内氏に替わって毛利氏が台頭してくるとこれに従っている。
椋山城は服部八幡神社の西背後に聳える標高178mの山に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂の主郭I1から南東に伸びる2つの尾根と北へ伸びる尾根に曲輪を展開している。
主郭I1には石碑がありお堂が建っている。I2には井戸があり、I3には南側に虎口1を開く。
I3から南へ伸びる尾根には曲輪群IIが段々と続き、先端には岩盤を削った堀切7を設けているが、その先には曲輪IVと二重?堀切8がある。
I3から南東へ伸びた尾根には曲輪群IIIがあり、先端は堀切9で遮断しているが、その先にも細い尾根上を互い違いになるように竪堀を入れており、S字に尾根を進むような珍しい遺構がある。
曲輪群IIとIIIの間の谷筋を上り詰めるとII2に至り、そこから上に上がると虎口2を経てI3の虎口1に上がる構造になっており、この谷筋が大手のような印象を受ける。
主郭から北へ伸びた尾根は現在の登山道が付いている尾根であるが、この尾根は大堀切4で遮断している。この先の尾根は山道として良く使われているためわかりにくくなっているが、 浅い堀切2、3が確認でき、その先に曲輪Vがある。
曲輪Vは切岸加工は甘いが北端に高土塁を設け、その先に大きな堀切1を設けているため、北尾根に対する出丸といったものだろう。
主郭から西尾根を下ると削平地VIがある。南側の谷筋の削平地は畑跡のようであるが、最上段は城の曲輪の可能性もある。
東麓の服部八幡宮と栄昌寺から登山道がある。八幡神社前のスペースに駐車可能で南側の登口に案内板が設置されている。
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