築城年代は定かではないが天正年間(1573年〜1592年)初期に有地若狭守元盛によって築かれたと云われる。 有地氏(あるじ)は亀寿山城主宮氏の庶流である。有地氏が宮氏が分かれたのは、天文年間(1532年〜1555年)頃とされ宮元信の弟石見守清元が兄弟不仲によって亀寿山城を出奔して国竹城を築き有地氏を称したとされる。
有地氏は隣接する利鎌山城主福田氏を滅ぼすなど勢力を広げたが、天文3年(1534年)毛利元就、熊谷信直、天野隆重、香川光景・元忠など二千騎余りで宮の城へ攻め込むと、籠城していた宮下野守直信は風病を患って急死し、元盛は降った。この「宮の城」は有地氏の詰城とされる大谷城・殿奥城と推測されている。
毛利氏に降った有地が築いたのが相方城で中世山城から石垣造りの近世城郭へと変貌する過程であったが、有地氏は天正19年(1591年)頃に出雲国へ転封となり、関ヶ原合戦後に毛利氏が防長二ヶ国に転封となると廃城となった。なお有地氏は江戸時代も毛利氏に仕え「大組」として存続した。
城は芦田川南岸の城山山頂にに築かれている。現在はテレビ塔が建っているものの立派な石垣が残っている。また、素盞鳴神社には移築された城門二棟が現存している。
城門(移築 城門)
城門(移築 城門)
国道486号線から県道157号線に入って佐賀田橋を渡った辺りに道標があり、普通車クラスであれば城址まで車で登ることができる。
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