建保元年(1213年)に新庄の地頭となった大庭三郎景連によって築かれ、以後十二代続いたとの伝承がある。
明徳の乱で古志佐渡守義綱は足利氏に属して戦い、その功により備後国新庄の地頭職を得た。古志氏は宇多源氏佐々木氏の庶流で、出雲国守護佐々木泰清の九男義信が神門郡古志を領して古志氏を名乗り出雲国浄土寺山城を居城としたことに始まるという。 応永8年(1401年)備後国守護に任ぜられた山名時氏の守護代として古志筑前守国信と大田垣式部少輔通泰が下向している。
国信の後、久信、為信と続き、永正9年(1512年)古志為信が城主のとき、尼子氏に味方したことから大内義興の命を受けた毛利興元によって攻められ落城したが、為信はすぐさま兵力を集めてこれを取り戻したという。
為信の子宗信は出雲にいて備後にはおらず、一時期弟の景信がいたという。天正13年(1544年)毛利氏が亀寿山城の宮氏を攻めたときには毛利方として功を挙げ、天文17年(1548年)の神辺城攻めにも毛利氏に属しており、備後の古志氏は大内方となっていようである。
最後の城主古志清左衛門豊長の頃には鷲尾山城主の杉原氏と関係が悪化し、元亀3年(1572年)には古志氏と杉原氏が戦ったが小早川隆景の仲介により和解した。しかし、最後は小早川隆景の三原城へ呼び出されて謀殺され、備後の古志氏は滅亡した。
本郷城は本郷川の西岸にあり、東へ伸びた尾根の先端頂部に築かれている。
主郭は山頂にあって東西に長く、堀切に面した西端に土塁があり、その脇に井戸がある。中央北側に土壇があり櫓台とされるが、現状では周囲がやや窪んで高く見えている程度である。この本丸の北側に「馬廻し」と呼ばれる犬走があり、これに面して石積が残っている。
本丸の西下には「けぬきぼり」と呼ばれる堀切があり、両側は竪堀になって落ちている。本丸から東へは段々と削平地になっている。
城山の東向かいにある昌源寺には最後の城主古志清左衛門豊長の墓地があり、城山の北側にある妙皇寺には本郷城(大場山城)の城門が移築されている。しかし、お寺の方の話では、この城門は近いうちに取り壊されて新しい門になるという。一部の部材は保存されて展示する予定だといい、門の形は移築時に改修した部分を元に戻して復元するという話であった。
城門(移築 城門)
県道48号線で本郷小学校を目指す。本郷小学校の西側の入口脇にある本郷公民館に本郷地区の史跡案内板がある。登山口はここから川沿いに北上して二つ目の橋を渡り、すぐに土手沿いに北へ行く。行き止まりの民家の手前に「城山」の看板がありここに入口がある。付近には駐車スペースはない。
最寄り駅(直線距離)